Thu, January 18, 2018

2009年1月号(12月5日発売号)アフリカの生と死


アフリカの生と死                               ソトコト1月号(2008年12月5日発売号)

親しくしていた村のママが亡くなった。
アフリカで暮らしていると、あまりにもあっけない死に何度向かい合ったかわからない。
彼女の場合も、ついこの前まで元気に畑仕事をしていたのに、調子が悪くなったと思ったら、
たった2週間臥せっただけで帰らぬ人となってしまった。

その村は、湾を隔てて向こう側にはモンバサの工業地帯が見えているほど街に近い位置にあるが、道路でのアクセスはなく、
村人たちは丸太をくり抜いた手漕ぎ船で海伝いに村と街を移動する。村には電気がなく、夜になると街の灯りが遠くの空を
ぼんやりと照らしているのが見える。満月の夜であれば、村の砂地の道を月明かりが照らし出す。
丸太舟と手作りの網で、細々と漁をして暮らしている静かな村だ。

 亡くなったママは、村いちばんの歌い手だった。
男女が出会い、肩を揺らしながらにぎやかに踊る歓喜の歌「ザンダーレ」の名手だった。
私と日本人ミュージシャン大西匡哉が、ケニアの貧しい音楽家たちをサポートするために立ち上げたプロジェクト「JIWE」で
リリースした伝統音楽のCDの中にも、彼女の歌声が収められていた。
彼女のご主人が、「肉体は私たちのもとを離れたが、彼女の声はこうして永遠に残った」と、寂しそうにつぶやいた。

 街の病院から村に遺体が運ばれてくるというので、出迎えに行った。漁師小屋がある、村の小さな船着場だ。
村の人々が、遺体を運ぶための板に布で日除けをつけ、船着場で大勢待っていた。
まもなく、2人の若者が漕ぐ丸太舟が静かに到着した。その中には、カンガ(腰巻の布)で包まれた遺体が横たわっていた。

 遺体を乗せた担架をかついで、人々は列になって泣きながら、歌いながら彼女の家まで歩いていった。

 家に到着すると、土壁に椰子の葉を葺いた簡素な住居の中に運ばれていった。
家の中には、木枠に縄が編まれたベッドがひとつあるだけで、他には何もなかった。
そのベッドに寝かせられた彼女は、心なしかほっとした表情に変わったように思えた。とても美しい顔で彼女は眠っていた。

そのときから埋葬されるまで、ずっと音楽が鳴り止むことはなかった。村の男たちがタイコを叩き、女たちが歌い、
男女ともに踊り、その音は夜が明けるまで村中に響き渡った。

翌朝早く、彼女は家の畑の土に埋葬された。畑に深く掘られた穴の中に横たわり、土がかけられた。
こうしていつまでも家族のそばで眠るのだ。彼女が残した5人の子どもたちは、片時も遺体のそばを離れなかった。
8人生んだけれど、幼いうちに3人が死んで、今は5人なんだよ、とご主人がおしえてくれた。

彼女は40歳。短すぎる人生だ。だけど思いきり生きたのだ、と実感した。
こんなにも美しい生と死が、この貧しい村では日常茶飯事に繰り返されている。それでもきっと、もっと生きられるのならば
どんなにか生きたかっただろう。病の苦しみや、愛しい人を失う悲しみは、世界中の誰にとっても同じ痛みのはずだ。
アフリカの潔い生と死の姿は、ときにあまりにも切ないと、つくづく感じる。

*この村人たちの伝統音楽CD「センゲーニャ」は、マイシャ・ヤ・ラハショップ取り扱っています。

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