Thu, November 15, 2018

23日 ナイロビ追悼集会   by 神戸 俊平先生


こちらは、ケニア在住の神戸俊平先生による手記です。
掲載のご許可をいただき掲載いたしました。

23日 ナイロビ追悼集会   by 神戸 俊平先生      2008年01月24日06:24

23日 ナイロビ追悼集会
朝10時ごろ、ナイロビ市立モーチャリー(遺体置場)で多数の棺桶が運び出された(今月3日に来た時には子供遺体がジャガイモを積んだように
収容されていた)。トラック2台とバンに運びこまれた。モーチャリー前のラウンドアバウト内には機動隊が待機し、
トラックが出て行くとき群集は罵声を浴びせていたが、機動隊は動かなかった。
10時から12時まで、許可された追悼集会だった。モーチャリーから追悼集会場までのンゴングRdを埋め尽くして追悼一行が約5Kmを行進した。
会場は電話局となりのLigi Ndogoという小さな広場でテントが張られテーブルが並んでいた。
そのテーブルに28体の棺桶が並べられると、集まった群衆は泣き叫んだ。官憲の銃弾で倒れた人ばかりだった。
キベラで先週金曜日にV撮影した頭を砕かれた遺体はフレデリック・ムワニ・オモンディさんという名前で、
整形され鼻の穴と口に脱脂綿を詰め込まれ、棺桶に収められていたが、頭骨は整形が出来ずゆがんでいた。
その他、血の付いたシャツを着たままの遺体もあった。
「オディンガ大統領」と称えつつ、ODMメンバーからお悔やみ言葉が述べられ、12時ごろにオディンガの演説が終わり、
閉会のお祈り最中に機動隊から会場に催涙弾が打ち込まれた。
クラッシュはなかったが、催涙弾と投げる石の中間にいて、撮影どころではなかった。
政治家達は直ちに車で退場する中、怒った群集は暴徒化し電話局に石をぶつけ始めた。局の入り口を壊し、鉄条網で防ぐ石壁を大勢で押し倒した。
局敷地内の2台の乗用車に火がつけられ、黒い煙が立ち上っていった。この電話局内には職員5名(2婦人)が残っていた。
出れば袋叩き、籠れば焼け死に、だった。機動隊が来るまでの約20分後、彼らは窓ガラスを破って脱出できた。
電話局を破壊した暴徒に「ただ様子を見に来た」と言っていたが、「トウキョウレストラン」を紹介した元ストリート・チルがまじっていた。
機動隊・ポリスが来て暴徒を追い払い、消防車が到着し燃えていた車・建物の火事は4時ごろに消された。
この5名のうち一人は知り合いだった。カレン電話局でよく切断される電話線を修理してくれた人だった。
ここは電話局なので停電の際には発電機をまわすために燃料タンクが局入り口の真横においてあった。
そっと「暴徒がこれに火を付けなくてよかった。
何もかもぶっ飛ばすところだった」と教えてくれた。

 

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