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キベラの近況 1       by 早川 千晶 


キベラの近況 1       by 早川 千晶             2008年01月24日22:05
皆さん、こんにちは。
すぐに報告が書けなくてすみませんでした。とりあえず、1月22日(火)の早朝にナイロビに帰ってきてから、すぐにキベラに行き、
キベラのあちこちの状況を見て回ったり、キベラの人々と話をしたり、マゴソの状況なども確認してきましたので、そのことについて報告を書きます。

キベラ内部は、本当に痛々しい状況。あちこちに焼け跡、廃墟、しかしその焼け跡にまた人々が廃材を集めてきて何とか細々とした店を出して
復興しようとしている様子。だけど、まだとても平常通りにはほど遠く、人々の暮らしの様子も「おそるおそる」というかんじ。
多くの店は閉まったままで復活できていず、なんとか細々と売られている物品も物価が高騰して、炭などの生活必需品も倍以上の値段になっている。
昼間は一見、平静が戻ったかのように見えても、一発触発的な緊張感があたりに漂っている。
夜間の不安はまだまったく解消されていず、熟睡することができないと誰もが言っている。
だんだんと子どもたちが戻ってきているマゴソスクールでは、どんな状況であっても子どもたちのためにはなんとしてでも
普通どおりの授業と普通どおりの給食を提供し続けていくことをみんなで誓い合ってがんばっています。
先生たちも、田舎に行ったまままだ帰ってこれていない人が何人もいます。
1月7日(月)からの週に、子どもたちへの食料の配給をはじめて、1月14日(月)からは授業も再開させました。
クリスマス休みに田舎に行ったまま帰って来れなくなった子どもたちがたくさんいることと、キベラに残っていた子どもたちも
キベラ外に避難したまま戻ってこれていない子どもたちも多数いるため、12月に休みに入ったときには208人だった子どもたちが
まだ半数以上戻ってこれていなくて、消息が確認できていません。先生たちや子どもたちで手分けして探しまわっているところです。
そんな中で、新しくマゴソにやってきた子どもたちもいます。
キベラ内の他の寺子屋に行っていたけれども、そこがキクユの人々が経営する学校で、ルオの子どもたちを追い出しているという状況があり、
そんな子どもたちがマゴソにやってきています。そしてその反対のケースもあり、ルオの経営する学校に行っていたキクユの子どもたちが
排除されているという状況もあります。全焼したキクユ経営の学校も近所にあります。
マゴソはもちろん、部族に関係なく、どんな部族の子どもたちも同じように受け入れています。
マゴソも焼き討ちのターゲットにされて、あわや放火されかけた危険な時期がありましたが、
そのときには、周辺の若者たちやウォルターたちが日夜、体を張って守ってくれました。

1月14日以降のマゴソの児童出席数は以下です。
1月14日(月) 37人
1月15日(火) 45人
1月16日(水) 54人
1月17日(木) 41人
1月18日(金) 39人
1月21日(月) 85人
1月22日(火) 103人
1月23日(水) 108人
1月24日(木) 99人

マゴソには遠くから来ている子どもたちも多いため、暴動が勃発すると通行不能になり出席できる数が減ります。
出てくることができた子どもたちには、学校で給食が食べれるだけではなく、ウガリの粉を家に持って帰れるように配給しています。
給食も続けていますが、炭の値段が倍以上に高騰してしまったことと、米やウガリの粉や豆や野菜など基本食品もひどく値段が高騰していて、
普段の給食にかかる費用の倍の出費になってしまっています。

子どもたちに、ひとりひとりから少しづつ話を聞きました。
どの子どもも、かなりひどい経験をしていたり、ひどいシーンを目撃していたりして、そのショックによる影響があきらかです。
親が殺された子どももいます。となりのおじさんが殺されるところを目の前で見た子どももいます。
自分の父親が近所の人をパンガ(斧)で切りつけ、そのまま逃走して、それ以来行方不明だという子どももいます。
まったく食料がない中でずっと家の中に閉じこもって飲まず食わずで隠れていた子どももいます。
子どもたちの中には、見た目にもあきらかに痩せ細ってやつれていて、以前のような明るい表情がなくなっている子どももいます。
だけれども、マゴソにこうして子どもたちで集まっていられることはやはりほっとする空間になっているはずです。
休み時間や給食の時間には、元気に遊ぶ子どもたちの笑い声も聞こえて、とにかくこの子たちの命が無事でよかったとつくづく思いました。
毎日、一日に何度も神に感謝して祈り、神様みんなを守ってくださいと子どもたちは先生たちと共に祈っています。

給食にかかる出費が高騰して、本当に困った状況ですが、今はお金の計算はせずにとにかく給食を出し続けて食料も配給し続けること。
そのことを優先してがんばろうと思っています。
1月7日からの週に、はじめに米の配給を1人2袋づつしましたが、(そのときウガリの粉が手に入らなかったので米を配給した)、
年末以来、それがはじめて手にした食料であり、それでなんとか一家が食いつなぐことができたと言っている子どもたちや父兄たちがたくさんいます。
キベラ内では経済活動が完全に停滞してしまっているので、日銭を稼ぐこともできず、食料を買うこともできず。
それだけではなく、稼ぎ手であった父親が闘いに行ってしまってそのまま行方不明だとか、
母親が働いていた食堂がキクユの経営だったため職を失い収入がまったくなくなったとか、
店も焼けて商品も焼けてまったく収入の手立てがなくなったとか、
多くの家庭が多かれ少なかれそんなどうしようもない状況を抱えていて、ここから再建していくにはいったいどうしたらいいのかと
途方に暮れている状態です。

これまで、貧困による生活苦はあっても、キベラスラムの中には活発な経済活動があり、
そんな中で人々は誰もが生きるために必死で働いて、助け合いながら生き抜いていくという前向きな活力に満ち溢れていました。
キベラスラムは、ケニアの多民族のすべてが混在している貧民街でしたが、同じ長屋の中に、言語や伝統文化や生活習慣の違う様々な民族が
混在しながらも、住民たちは絶妙なバランスを取り合いながら生きてきました。
その微妙なバランスというのは、「言ってはならないこと」や「やってはならないこと」の暗黙の了解、
その「超えてはならない最後の一線」みたいなものを誰もが何とか守ってきたからこそ成り立っていたのではないかと思います。
今回、その「暗黙の了解」の最後の防波堤が、一瞬にして破裂してしまったように思います。
戦いが勃発してから、どの長屋がキクユのものでルオのものか、どの部屋がキクユの住民でルオの住民か、ということがマークされて、
互いにターゲットにし合う。焼き討ちや殺戮、それに便乗しての物品の強奪。レイプ。
まさに無法状態のような大混乱が一瞬にして広がってしまいました。 そんな中でも、理性を保ち、助け合おうとしている姿もたくさん見られます。
ターゲットにされて逃げ出した人々を救い出し家の中にかくまっている他部族の人々もたくさんいます。

選挙後に、このような混乱が勃発するバロメーターは、その国の貧困度にある、ということを書いた新聞記事を見ましたが、
それは確かに言えることかもしれないと思いました。その記事によると、国民全体の貧困度が50%を超えたときというのが境い目だとか。
今回のことは、ただ単なる部族間の憎しみ合いとか、部族闘争だとかと、国際社会にも、ケニア国内でも、とらえられてしまってはならないと思う。
ケニア国内でも、今回のことをどのようにとらえているかということは、貧困層での状況と、裕福な層での状況では、
かなりの温度差があるように感じます。
今後、政治的には何らかの改善が見られたとしても、庶民生活においてはその傷は簡単に癒えるものではなく、
根深い問題を残すだろうと思われます。

こんな状況になってしまいましたが、それでも、子どもたちの毎日の生活に直結している我々としては、
とにかく世間がどうであっても子どもたちのために平常心を保ち続けること、子どもたちが学校に通い勉強をすることができて
ご飯が食べれるという出来る限りの平常を保ち続けるということ、それだけにとにかく集中してがんばって、
それを続けていくことができる条件を作り出していかねばと思っています。

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